ヒュゲリなコラム

全ての人に「居場所」を。遊びから学ぶ、デンマーク流「インクルージョン」とは

画像:Pixabay

もくじ

「インクルージョン」に基づく「居場所」とは?

自分の居場所を求めるのは、人間の心理。

デンマークで暮らし、子育てをする中、そんな「居場所」について考えさせられる機会が多々ありました。

一口に「居場所」といっても、様々な意味やシチュエーションがあります。

しかし、今回触れたいのは、「趣味や習い事で、気の合う仲間を見つける」「仕事で、自分が貢献できる分野を見つける」など、自ら、外向きかつ自発的に自分の居場所を探すことではありません。

むしろ、ここでいう「居場所」は、その時々に目の前にある空間の中で、その場にいる全員が心地よくいられるものにするという「自然発生的な居場所」。

それに「インクルージョン」の要素が加わってくるのですが、もう少しわかりやすいように、いくつかエピソードを紹介したいと思います。

仲間外れ?「一緒に遊びたくない」の意図とは

娘が1歳半を過ぎた頃、困ったシチュエーションによく遭遇しました。

だいぶ独立してきたものの、まだ幼い娘は、一人遊びや、他の子と隣り合わせで場を共有して遊ぶのが主。

そんな遊びの最中に、「一緒に遊ぶのはヤダ(Du må ikke med. / You cannot play with me/us.)」と遊びに入れてもらえない、入れてあげないことがよくあったのです。

そんな状況を目にした時、幼少時にいじめられた辛い思い出がある私は、過去の経験と重なって心が痛みます。

どう対応をしたらいいか、保育士ブリットに相談すると、こんな答えが。

「大人にとっては『ひどい光景』も、小さな子どもはそこまで重く受け止めない。ダメージは最小。悪影響はない」

「子どもにとって、『ヤダ。一緒に遊びたくない』というのは、イコール『明日も明後日も、1年後もイヤ』なのではなく、『【今この瞬間】はイヤ』なだけ」

少し脱線しますが、これを聞いた時に思い出したのは、セラピストに教えてもらった「90/10の法則」。

ある瞬間、自分の中に満ちあふれる感情や状況判断を100とすると、その100の内、実際に目の前で起こっている「事実」に基づいているのは、たったの10%だけ。

残りの90%は、自分自身の過去のネガティブな経験に紐付いているにも関わらず、知らず知らずのうちに、脳が100%現実としてインプットしてしまうというのです。

この法則は、主に過去にトラウマがある人に当てはまります。

しかし、私は、感情に飲み込まれそうになったときに、この法則を思い出すことで、個人的な感情ではなく、娘を軸にした冷静な判断を下す助けになっています。

話を幼稚園に戻します。

ブリットは、ちょうどその日に起こった出来事を教えてくれました。

当時娘が通っていた保育園(0歳~3歳未満)の中には、押入下段に似た造り付け棚があり、そこにカーテンのような布を下げて、秘密基地のような空間を作っていました。

その中で一人で遊んでいた娘のところに、アントンがやってきたのですが、娘は「イヤ。入らないで!」と言って泣き出したそうです。

そんな2人を、ブリットはこうサポートします。

「アントン、『今』ハナは誰もお客さんを呼びたくないみたい。別のことをして遊んでいようか」

「ハナ、中に入りたい人がいるみたいよ。お客さんを招待したくなったら言ってね」

そのブリットの声かけ後、すぐに娘は泣きやみ、1分も経たないうちにアントンを秘密基地の中に「招待」すると、2人はカーテンに隠れてきゃっきゃと楽しく遊んだそうです。

続く「イヤ」も、成長に応じて変化が

その後、3歳を過ぎてから進学した幼稚園(3歳~6歳)では、成長に伴い、遊び方にも変化が見られます。

それまでの1人や2人から、少人数のグループで遊ぶことが増え、それまでとはちょっと違う「一緒に遊びたくない」が登場します。

新顔の娘は、進学後しばらく、興味津々の子どもたちから「ハナと遊びたい」とモテモテ。

そんな娘は、昨日はあなたと遊んだけど、今日はリネアと遊ぶ、などと無意識に「選別」をしていたようです。

こんな時にどうしたらいいか相談すると、保育士ローネは、幼稚園での対応の仕方を教えてくれました。

まず、前提として教えてくれたのは、「すでに進行している遊びの中に、自分から入っていくのは簡単ではない」ということ。

その上で、大抵の遊びは、皆がそれぞれ役割を持つことが出来るので、全員が参加して遊べるように、保育士(大人)がサポートするのが大事。

また、「リネアも一緒に遊んでも良い?」「仲間に入れてあげて」など、Yes/Noで返せる質問をすると、返ってくる答えは(当然)「ヤダ」「ダメ」なので、違う方法でサポートすることを薦めます。

わかりやすい例は、おままごとやお店やさんごっこ。

演劇の配役のように、お客さん、妹や犬など、新しい役割をどんどん追加できるので、遅れてきた子や輪の外にいる子も、容易に途中参加が可能です。

また、滑り台など役割がない遊びでも、「(今幼稚園に着いた)ヴァルデも滑りたいって。さあ、ハナの後ろに並んで。ハナの後はヴァルデの番ね」と輪の中に入れてあげる。

こうしていったん遊びの一員になると、後から加わった+1人も含めた遊びが自然に進行します。

誰かを「入れてあげる」か「入れてあげない」、という2つの選択肢に基づいた閉鎖的(exclusion)な遊び方ではなく、そこにいる全ての子が参加できる開放的(inclusion)な遊びへと変化し、子どもたちも、自然と「遊びを開放する」ことを学んでいきます。

そして、全員同じ時間ではなく、時間差で幼稚園に登園することを毎日繰り返すことで、進行中の遊びに自分自身、そして他の子を「インクルージョンする」ことを覚えていくのです。

入りたいけど入れない

中庭でも同様のことがありました。

ある日、娘と一緒に幼稚園から帰ってくると、なじみの子たちがすでに一緒に遊んでいました。

娘は、興味深そうにニコニコしながら見ていたのですが、自分からは入りにくかったようで、しばらく輪の外から「見学」。

そんな娘に、「みんな何をして遊んでるのかな?一緒に行ってみようか」と声をかけますが、娘は動きません。

すると、遊んでいる子たちの1人であるエミルのパパが、さっと娘のところにやってきました。

そして、「エミルが何して遊んでるか見に行こう。おいで。」と娘に手を差し伸べました。

すると、娘はその手を握って颯爽とついて行き、瞬く間に遊びの輪の中にいました。

ここで思ったのは、私(輪の中に入りたい子の親)が言うのと、エミルのパパ(輪の中にいる子の親)が言うのでは、意味合いが違うということ。

自分の子どもが輪の中に入れるようにする「外から中へ」のサポートは大事。

しかし、自分の子を中心にした考えだけではなく、同様に、自分の子がいる輪の中に他の子たちが入れるサポートも大事なのだと気づかされました。

すなわちエミルは、自分の親が、他の子にも焦点を当てる様子を目撃するすることで、周りの人の気持ちや状況にも目を配り、「インクルージョン」することを身につけていくのです。

「だって、とってもイライラするんだもの!」7歳児の訴え

もう一つ面白い例があります。

コロナロックダウン以前の話です。

近所で、家族ぐるみのつき合いがある6家族には、0歳から10歳の子どもたちがいます。

娘を含めた3歳になりたての3人は、6~7歳の子たちに興味津々。

庭で遊んでいると、小さい子が大きい子たちの後をついて回るという光景をよく目にします。

でも、3歳と7歳の差は大きい。

「遊び方も出来ることも違うから、一緒には遊べないだろうな」と思いながら、介入せずに様子を見ていたのですが、7歳のエラとエレンは不服そう。

プレイハウスの中に入ると、木の枝で「鍵を閉め」、誰も中に入れないようにします。

すると、中に入りたいのに入れない娘は泣き出します。

私は、「あら、鍵が閉まっちゃったね。他の事をして遊ぼう」と気分を変える作戦に出ました。

すると、エラのパパが気づいてやってきました。

エラのパパ、ラースは小学校低学年の先生。

こういったぶつかり合いをサポートするのがとても上手です。

そんなラースは、早速エラとエレンに、何が起こっているのか聞きます。

するとエラは、「エレンと2人で遊びたいのに小さい子がついてくるからイヤだ」「プレイハウスで2人だけで遊びたい」と訴えます。

そんなエラに、ラースは、「小さい子たちは『(仲良し)クラブ』の意味が分からない」

「プレイハウスに入りたい人は、誰でも入る権利がある」

「さあ『鍵』を開けて」と促します。

言い返すエラに対して、「そういうもの。問答無用。鍵を開けて小さい子たちを入れてあげて」ときっぱり。

エラとエレンは、渋々「鍵」を開けます。

そのあと、「鍵の開いた」プレイハウスの中に入った娘は、結局すぐに泣きながら出てきました。

「ああ、やっぱり一緒に遊ぶのは無理だな」と思いながらも、ラースの対応から学ぶことがありました。

7歳児・3歳児が、ともに相手を尊重し、皆が居れる「居場所」を作ることです。

7歳児が、「上の立場」から学ぶことは、自分よりも弱い者にも居場所を作ること。

そして、できるパワーがあるからといって、他の人にもある権利を奪ってはいけない、ということ。

同時に、3歳児が「下の立場」から学ぶのは、自分にも平等に権利がある、自分より強い人に振り回されなくていいということ。

こうして子どもたちは、年齢を超え、分け隔てなく平等に「居場所」を作り、まわりをリスペクトしながら遊ぶことを覚えていきます。

コロナロックダウンのポジティブな影響

後日、エラとエレンは私のところにもやってきました。

「ハナとルイスが、どこにでも付いてくるからいやだ。イライラする」と訴えてきたのです。

はっきりしていて面白いなと思いながらも、私はどう答えたらいいか迷ったのち、エラのパパ・ラースの行動を参考にして答えました。

「イライラするのはよくわかる。でも、小さい子たちは、あなたたちが何をしているか興味津々なの。ただ興味があるだけ」

「近くに立って見ているのだけだからいいよね?」

すると、エラは不服ながらも理解した様子。

3歳児を「引き連れた」まま、遊びを続行していました。

この状態は、コロナの後、ポジティブな進化を遂げました。

近所の親同士でも、コロナ以降、子どもたちが「インクルージョン」を覚え、一緒に遊ぶことが「上手くなった」とよく話します。

自分たちで、学校ごっこ、幼稚園ごっこ、鬼ごっこ、サーカスごっこなど、年齢を超えて皆が参加できる遊びを考え、皆に「居場所」を作っているのです。

もちろん、「一緒に学校ごっこをしない?」の声かけに「(今は)したくない」と答える子もいます。

でも、その時々で一緒に遊びたい子が全員参加できる遊びを自分たちで考え、進行できるのです。

親は、ぶつかり合いや泣く子がいなければ、ほぼノータッチ。

このような光景を目にすると、毎回、胸がとても熱くなります。

大人にも必要な「居場所」

みなに居場所を作るという考えは、大人になってからも顕然。

数ヶ月前に、夫が試験前でピリピリしている時がありました。

「家の中がピリピリしている」とデンマーク人の友人にこぼすと、こんな答えが返ってきました。

「試験で大変だとは思うけど、(家の中で)全員に『居場所』があるべきよね(Der skal være plads til alle.)」

これを聞いてハッとしました。

上記、例として紹介した、子どもの「居場所づくり」と共通するからです。

ここで言う「居場所」は、家の広さや一人当たりの面積ではなく、「精神的に素の自分でいられる、心地いい空間」である居場所。

「家庭内で居心地が悪いから、外に居場所を探す」のではなく、家庭内でも、一人一人皆が心地がいいように、自らそしてお互いのために「居場所」を作るという考えです。

この考えは、家庭内だけでなく、職場や学校など、他のシチュエーションでも実践可能ではないでしょうか。

また、一見全く関係がないような「北欧式参加型デザイン」も、基をたどれば、「皆に居場所がある」「皆をインクルージョン」するという考え方にたどり着くのではないでしょうか。

こうして、幼少から実践を通して学び、大人になってからも継続するこの考えは、「インクルージョン」や「居場所づくり」を自然に実行できるデンマーク式「居場所」に繋がっているのだと思います。