画像:Slik lærer du barna å håndtere konflikter
もくじ
「Noが言える」は、ほめ言葉
ある日、保育園に娘を迎えにいくと、「ハナはNoを言うのが上手いわね」と保育士のブリットに言われました。
はて、上手いとはどういうことなんだろう。
ブリットが言うのは、相手を傷つけないように言う相手本意のNoではなく、自分がイヤな事をされたときにストップをかけるNoのことです。
デンマーク語で「grænseoverskridende」という言葉があります。
grænse=境界線
overskride=超える
自分の限界を超えるようなチャレンジや、自分にとって不快なことを乗り越える時に使われます。
Noを的確に言えるためには、自分の感情の境界線を知り、その境界線を越えて入ってくる人や物事には、はっきりとNoと言えることが大事なのです。
子どもが境界線を学ぶことをサポートする
とはいっても、もちろん小さい子は全て自分で判断ができないので、自分自身の、そして他人との境界線を学ぶことを教えてあげる必要があります。
やり方は色々あるでしょう。
私は、幼少から思春期まで、理解や納得ができない、親の都合に基づいた「ダメ」を多く聞いて育ったので、「ダメ」に対するアレルギーがあります。
叩かれたり、ご飯抜きや、外に出される暴力的な「ダメ」も体験してきました。
だから、自分の子には、理解不能な「ダメ」を連発するようなことはしたくないと思っていました。
しかし、Noにネガティブな感情・体験が紐付く私は、一体どうしたら、自分が知る以外の方法で子どもをサポート出来るのでしょうか。
児童心理学者のエマに相談すると、人をぶつことはいけない、ものを取ってはいけないなど、絶対にいけないことはあるので、何でも曖昧にするのではなく、はっきりと強く言うNoも必要だといいます。
これをどう日本語に置き換えるか悩みました。
日本語では、Noの婉曲表現が充実しているので、ダイレクトにNoと言わなくてもNoと言える表現がたくさんあるからです。
英語やデンマーク語ではNo(Nej)の一言で済んでしまうのが、日本語では、誰かからストップをかけられる「だめ」や「いけない」に加えて、誰かにストップをかける「やだ」「やめて」など、状況に応じて様々な言い方ができます。
自分の気持ちと相談した結果、私がたどり着いたのは、英語流の「んっんー」。
それと同時に、どうしてNoなのかわかりやすく説明をすること。
子どもだから理解できないだろうと子ども扱いした対応や、暴力でむりやりたたき込むNoは、頭の中に負の遺産として残ることを子どもとして経験したからです。
子どもも一人の人として向き合うこと。
これはデンマークで学び、大切にしていることです。
子どもの気持ちを言葉にしてあげること
加えて、娘が泣いているときには、どうして泣いているのかを言葉にしてあげることを意識しています。
保育園で子どもが泣くと、保育士たちは「ママに会いたくて悲しいんだね」とか「頭をぶつけて痛いんだね」と、大人が言葉にして発することで、まだ語彙数も少なく感情発達段階で、気持ちを言葉に出来ない子供たちを助けます。
椅子から落ちて泣いている子にも、「どこかを打って痛いの? それともびっくりしたの? そうか、びっくりしたのか。恐かった? キッチンに行って水を飲んだらすっきりするかもよ。さあ一緒に行こう」
ある子が友だちをぶったときも、「ぶつことはいけないよ。ほら見てごらん、嫌がっているよ。ぶつと痛いんだよ。怒って泣いているよ。」
まだ歩くこともままならない子供たちにも、自分や相手は今なぜ泣いているのか、この気持ちは何なのかと意識させることを繰り返し行うのです。
私は「いい加減にしなさい」「わがままを言うな」と言われて育ちました。
でも、保育士が子どもたちと接している様子をみていて、「魔の2歳」というのは、感情の表現やコントロールが的確に出来ないからであって、決してわがままではないんだと学びました。
みんなで仲良くしよう!じゃない境界線の引き方
子供同士が遊んでいて微笑ましいと思っていても、ぶつかることは多々あります。
以前、保育園で興味深い出来事がありました。
娘の保育園には、木製の自動車で、移動は出来ませんが、中に座りながらハンドルやボタンで「運転ごっこ」ができるおもちゃが置いてあります。
当時2歳半ぐらいだった娘が座席に座ると、半分ちょっとが占領され、もう1人座れるかなぐらいのスペースが残っていました。
その残ったスペースをめがけてやってきた2歳のユリアは、何も言わず一緒に車に乗ろうとします。
娘は「No」といいますが、私の視点では、ギリギリ2人が一緒に座れそうだったので、
「イヤなの? ちょっと狭いけど、2人で座れるから一緒に遊ぼうよ」と仲良く一緒に遊ぶように言ったものの、やはり娘は嫌がります。
私がどうしようかと迷っている間に、ユリアは車に乗り込み、ぎゅうぎゅう詰めになりながらも娘の隣に座りました。
そして娘は泣き出します。
その場に保育士がいなかったので、適切な対処の仕方がわからず、ひとまず泣いてる娘を慰めるために、抱っこしてその場を離れました。
娘が落ち着いた後、保育士のカリーナが戻ってきたので、「こういう場合、あなたならどうする?」と聞くと、カリーナはこう答えます。
「ハナが先に遊んでいたのだから、こう言うときはハナのNoを尊重して、ユリアには他のおもちゃで遊びながら順番を待つように促す」
娘の「ヤダ」、「No」という境界線を越えないように、娘とユリアの両者を手助けするのです。
ああそうだったのかとすっきりし、次回からの対処方法が見えました。
というのも、これまで見てきた「デンマーク流」おもちゃのシェア方法、遊び方法と同じだったからです。
このおもちゃは誰のもの?
保育士たちの間では、「命を持つおもちゃたち」という表現があるそうです。
遊ばれなくて、放っておかれているときは誰の興味も引かないものの、誰かが遊びだして命をもらったとたんに魅力的に見え、他の子たちもこぞって欲しがるおもちゃとなることを表しています。
それに伴い、自分も同じおもちゃがいいと泣き出す子や、他の子が遊んでいるおもちゃを取り上げる子が出てきます。
こんな時、デンマークでは「今は太郎ちゃんが遊んでいるから、遊び終わるまで待とうね。」と答え、「待っている間このおもちゃで遊ぶ?」と、代わりのおもちゃで遊ぶことを提案します。
加えて、花子ちゃんが太郎ちゃんから取り上げてしまったおもちゃは、「今そのおもちゃは太郎ちゃんが遊んでいたよ」と花子ちゃんから取り、先に遊んでいた太郎ちゃんに返します。
取った方の花子ちゃんがどれだけ泣きわめこうとも、泣いていてかわいそうだからと花子ちゃんを優先したり、太郎ちゃんに「花子ちゃんが泣いていてかわいそうだから貸してあげよう」と促すことはしないのです(保育園外では、そうしてしまうケースもよく見ます)。
他に、カリーナから聞いた話もあります。
しばらく前、娘は保育園にある消防車の本をとても気に入っていたのですが、その朝は先に登園した赤ちゃんクラスのラースがその本を持っていました。
それを見た娘は「私の本を返して!」と泣いたそうです。
そこでカリーナは、「これはあなたのお気に入りの本だったね」と認識しながら、「今はラースが読んでいるから、終わったら持って行くからね」と娘に約束します。
しばらく後で、約束通り本を持って行ったそうですが、そのとき娘は別のおもちゃで遊んでいたので、あえて邪魔はせず、でも約束は守るため、本を娘のロッカーに置いておいたそうです。
カリーナは、決して「あなたはお姉さんなんだから貸してあげようね」と感情を抑え込む形での我慢は要求しません。
欲求が強く直球な子供たちの間で避けられないぶつかり合いは、大人が助けながら、娘もラースもどちらも平等に尊重し、事実に基づいてわかりやすい対応をするのです。
デンマークで学ぶ境界線の絶妙なバランス
自分の気持ちを認め、認められながら、周りの人の気持ちも認識し受け入れ、自分も他人も同時にリスペクトすることを、言葉もしゃべれない時から学ぶデンマーク。
親や「偉い人」の言うことは絶対と教えられ、自分より他人を優先しながら育った私は、実は自分の境界線を引くのが苦手なんだと、セラピーを通じて初めて気づきました。
かつては、境界線を「諦め」や「負け」ととらえ、自分の境界線にぶつかったであろうときも気づかず、無視していたように思います。
限界についてよく知らなかったかつての私のように、限界を超えて頑張り倒れてから気づいたり、不服ながらも、Noの向こうに待っているネガティブな結果を恐れてNoと言えず、モヤモヤしてしまったりする人もいるのではないでしょうか。
遅ればせながら、娘がこのデンマークで境界線を見つける過程に関わることで、私自身も、自分の境界線について日々学んでいます。